いのち・つながる・エイサー

高らかに声を上げ太鼓を鳴らす、沖縄を代表する夏の風物詩〈エイサー〉。伝統芸能として有名な踊りの背景から、古からのいのちのつながりが見えてきました。

祖先と共に過ごす〈盆〉

 人が亡くなることを「土に還る」と表現することがある。信仰や風習(土葬など)から生まれた言葉で、それだけ「土」が身近にある生活をしていたからだと言えるだろう。四方を海に囲まれた沖縄では、土よりも海が身近であるためか、「先祖は海から来て海へ還る」という死生観がある。

 沖縄や奄美地方では神々が住まう理想郷を「ニライカナイ」と呼ぶ。海のかなたにあり、自然からの恩恵や新しい命をこの世にもたらし、死者の魂が還る場所だと信じられている。沖縄には様々な祖先崇拝の儀礼があるが、その中でも十六日祭(ジュールクニチー)(旧暦の1月16日)、清明祭(シーミー)(新暦4月5日〜)、そして盆(シチグワッチ)(旧暦7月13~15日)はいずれも仏壇や墓前に供物をお供えして祖先を偲び慰める行事で、三大祖霊祭と呼ばれる。その中で、祖先の霊を家に招き入れて共に過ごす唯一の機会が盆である。

沖縄の祭事には欠かせないお重。ご先祖様にお供えをしてからいただく。残さず食べきることが礼儀とされる。

お盆の最終日には〈ウチカビ〉という紙でできた、あの世のお金を燃やす風習がある。祖先があの世でお金に困らないように、という子孫からの贈り物。

 沖縄の盆に欠かせないのがエイサーという盆踊りだ。盆踊りと聞くとやぐらを囲んで皆で輪になって踊るのを連想するが、エイサーは演者であるテークチリと、彼らを世話するナカワチ(またはチョンダラー)とが歌を歌いながら太鼓をたたいて地区の道を練り歩く。祖先の精霊を神の国から迎え、送り還すために念仏を唱ながら踊っていた「念仏踊り」が発展して現在のエイサーの型になった。

福島の踊り×琉球の労働歌×仏教=エイサー

 琉球王朝は島国として長らく発展し、日本をはじめとする中国や東南アジア諸国との交易により独自の文化を創り上げてきたが、エイサーもまたそのひとつだ。

 エイサーの原型を作ったのは、浄土宗僧侶の袋中(たいちゅう)上人であると言われている。1603年に本場中国の仏教を学びに行くために途中滞在したのが琉球であったが、当時の国交状態から中国に渡ることが許されず、3年間琉球に留まることになる。琉球は仏教があまり普及しておらず「盆に祖先を迎え入れる」という習慣がなかった。そこで袋中上人は琉球の労働歌「えさおもろ」にのせた念仏歌を作詞し、上人の出身地である福島県いわき市の伝統踊り「じゃんがら踊り」を基にした念仏踊りを作り、琉球の祖先崇拝・死者供養の文化に仏教の盆の考えを融合させて、仏教の布教に務めた。

 それが琉球王朝時代に受け入れられ、現代ではエイサーは沖縄全島の青年会で伝統芸能として根付いている。エイサーと一言で言ってもその形態は様々。字(あざ)と呼ばれる集落ごとに型が異なり、大太鼓と締め太鼓を使うエイサーや手踊りのみのエイサー、パーランクーという手持ちの片張り太鼓を使うエイサーなどがあり、衣装や音楽も時代と共に変容を遂げてきた。毎年旧盆明けの最初の週末に開催される全島エイサー祭りには30万もの人が来場し、集落ごとの一糸乱れぬ演舞に酔いしれる。

念仏踊りを受け継ぐ〈平敷屋エイサー〉

 沖縄本島中部の東海岸に突き出た勝連半島。世界遺産〈勝連城跡〉が位置するうるま市(旧勝連町)平敷屋(へしきや)には知る人ぞ知るエイサーがある。

他集落のエイサーの衣装は赤や紫・黒・黄色など鮮やかである一方、平敷屋エイサーは袋中上人が作った念仏踊りの流れをくみ、僧侶の袈裟にも見える白黒で統一された衣装を身にまとう。うるま市の市無形民族文化財でもある平敷屋エイサーは、全島エイサー祭りの前段である全島エイサーコンクール(※)で、1956年に始まった20年間の間に2度三連覇を果たしている。発足当時の衣装・技の芸術性の高さ・体系の整然さによるところが評価された。

平敷屋エイサー保存会顧問 宮城松生さん

 「私たちが現役でエイサーを踊っていた頃は太鼓打ちの試験がありました。」と話すのは、平敷屋エイサー保存会顧問の宮城松生さん。服装から足さばき、腕の高さなど先輩からの厳しい指導があったという。

 「平敷屋のエイサーは東西に分かれていたことも大きな特徴です。東は力強い男踊り、西は優雅な女踊りでした。東西で分かれることでお互いに高めあう存在で、いいライバル関係を築いていました。エイサーのことになると熱が入りますが、エイサーが終わると東西みんな仲良くしています。2023年にメンバーの減少を理由に東西が統合されましたが、平敷屋エイサー保存会としては伝統ある型を正しく残していこうと、小中学校などに出向いて演舞指導をしたりDVDを製作したりして継承に力を入れています。」

※全島エイサーコンクールは1956年から演舞を競う形で開催されてきたが、各地のエイサーの良さは競うものではないとして、1977年に全島エイサー祭りに改称した。

ルーツと祖先への感謝

 少子化や沖縄県外への進学・就職などで青年会の会員数は、どの集落も減少傾向にある。一方で、一度県外に就職したものの、エイサーを理由に仕事を辞めて戻ってくる若者もいるそう。

平敷屋エイサー保存会会長 新里 正幸さん

 「自分は県外で生まれ育ったけれど母親の出身が平敷屋だから、自分のルーツを知りたいと今年エイサーに参加した女性がいました。親もそのまた親も参加してきたエイサ ーだから、血が騒ぐんでしょうかね(笑)。小中学校にエイサーの指導に行くと、子どもたちも『エイサー踊りたい』と言ってきてくれます。」と、平敷屋エイサー保存会会長の新里正幸さん。保存会としては先人の作られた型を守ることを大切にしつつ、現役の青年たちを見守っている。

50年前の新里さんと宮城さん(写真上)。酒樽を担いだナカワチが登場してエイサーが始まる。「こんな風に踊るんですよ」と当時の様子を振り返ってくださった(写真下)。

エイサーを見て涙する沖縄の人も多い。それは、幼少時代に親戚と過ごした懐かしい思い出からか、大変な練習をくぐり抜けた青春の1ページからか、無我夢中で踊る青年たちの熱量からか、はたまた歌にのせた祖先への感謝の気持ちからなのか…。琉球、薩摩、アメリカ、日本と支配層が時代の変遷とともに変わる中、沖縄の人々は宗教や宗派という枠にはまらず「祖先崇拝」という信仰を脈々と繋いできた。エイサーが心を揺さぶり胸を熱くするのは、祖先がつないできてくれた命の喜びなのかもしれない。

神々が降臨したとされる久高島が一望できる玉城城跡(南城市)。琉球国王が聖地を巡礼した「東御廻り(アガリウマーイ)」の最後の拝所でもある。

平敷屋エイサーを動画で見てみよう!

(うるま市公式youtubeより)


「暮らしの発酵通信」19号掲載(2023年8月、10月取材)

この記事を書いた人

里菌 かこ
「暮らしの発酵通信」ライター/発酵ライフアドバイザーPRO.

微生物関連会社に10年務め、農業・健康・環境などあらゆる分野での微生物の可能性について取材し、業界紙に掲載。発酵ライフアドバイザーPRO.の資格を取得し、発酵食品についても広く知識を深める。ライティングだけではなく、ワークショップ講師やイベント企画も務める文武両道の発酵ライター。

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