御食つ国の鰹節:(有)まるてん

 

全国約8万社ある神社の中で、別格として崇められる「神宮(伊勢神宮)」と、和食の根幹を担う「鰹節」。その二つをつないでいるのが、いにしえより、天照大御神の御食事の食材を提供する国として「御食つ国(みけつくに)」とうたわれてきた三重県志摩市の「鰹節」だった。

 

「だし」といえば「鰹節」

「世界一堅い食品」と言われる鰹節。鰹は元々「堅魚(かたうお)」と呼ばれ、その歴史は古く、『古事記』の中で「朝廷に堅魚が献上され、天子が喜んで食した」という記述があるほど。堅魚、煮堅魚(にかたうお)は、アワビと共にもっとも価値のある貢納品(税金として納めるもの)として登録されていた。また、鰹の煮汁を煮詰めたものは「堅魚煎汁(かつおのいろり)」と呼ばれ、塩や酢と同じく、上流階級しか味わえない代物だった。ただ、この当時の鰹節は、生の鰹を煮て天日干しした程度のものだったと言われている。 焙乾法(ばいかんほう)と呼ばれる、鰹を天日干しではなく薪で燻して水分をとり除く製法が生まれたのは江戸時代初期。この時に書かれた『種子島家譜』に「かつほぶし」という言葉が初めて登場する。以降の料理書では、精進料理を除いて、「だし」といえば「鰹節」であり、「料理の神髄をなすもの」として紹介されている。鰹節は、和食のだしの原点なのだ。炊き立てご飯の上で踊る鰹節、ふつふつとしたお湯の中から広がる香りには、思わず「日本人で良かった」と笑みがこぼれる。

また、鰹節は広く縁起物として扱われた。「勝男武士」という言葉が流行るほど、戦に勝つ縁起物として武士にもてはやされ、梅干しや味噌玉、兵糧丸(※1)と共に、鰹節は陣中食として重宝された。庶民の間でも、鰹の背側の雄節と腹側の雌節を合わせて「夫婦節」として婚礼に、夫婦節の形が亀の甲羅に似ているとして長寿祝いに欠かせないおめでたい食材へと、日本の風習の中に溶け込んでいった。 ※1 味噌玉とは、味噌を固めて乾燥させた非常食で、兵糧丸は忍者の携帯食。 焙乾された鰹(現在で言う「荒節」)を江戸へ輸送する船の中で、偶然、鰹にカビが発生。カビを拭って食べてみたところ、荒節よりも風味やうま味が増していたことから、カビを利用した「枯節」や「本枯節」といった発酵食品としての鰹節が生まれた。カビ付けを最低2回繰り返したものをしたものを「本枯節」と言う。鰹節に含まれるうま味成分は、元々鰹に含まれているものではなく、鰹節の製造工程によって生まれる。

 

丁寧に燻された鰹節の断面。べっ甲のような輝きを放つ。

 

 

天照大御神に献上される「鰹節」

現在、鰹節の生産量日本一を誇るのは鹿児島県枕崎市。しかし、かつて鰹漁の中心は、紀伊半島南端の紀州(現在の和歌山県)印南町であり、焙乾法を考案したのも、紀伊印南出身の漁民である角屋甚太郎と言われている(※2)。黒潮に乗った小魚を追って、鰹や鯨が群来する豊かな漁場だった。三重県志摩半島も、黒潮の本流が流れ込み、江戸時代以前から鰹漁が盛んな地域で、最盛期は200軒近く鰹節を製造していた。 ※2 考案した場所は土佐国。

いにしえの頃より、天照大御神に「神饌(しんせん)」として捧げられてきた鰹節。

 

三重県志摩市大王町波切地区。波を切ると書いて、「なきり」。まるてんのいぶし小屋からは、太平洋の荒々しい波が断崖絶壁に打ち付けられて切られていく様子が臨める。 「波切(魚切里)の名は、古来平城京の木簡に示されていて、この辺りの堅魚が奈良王朝に献上していたという記述が残っています。このいぶし小屋は昭和年に建てられたものですが、地元で代々受け継がれていったため、実質の創業年は記録に残らないほど古いようです。」と、有限会社まるてん代表取締役の天白幸明さん。

まるてん有限会社代表取締役 天白幸明さん

 

 「この辺りの漁師は、鯨を捕まえるために、いくつかの小さな船で団結して獲物を仕留める漁に長けていました。それが戦国時代では水軍として力を持つようになり、織田信長の水軍(九鬼水軍)として、力を発揮できたんじゃないかと言われています。党首の九鬼嘉隆は、戦の準備には食も大切だとし、部下たちには腰に鰹節と刀を共にたずさえ、戦いの合間に食すように命令したそうです。鰹節でビタミン不足を補うことで、戦いを勝ち抜いたんじゃないでしょうか。まぁ、水軍とはいえ、元は海賊みたいなものですよ。私も血が入っているから、海賊みたいな顔してるでしょ(笑)? 江戸時代までの主要な交通網は海路でした。漁や戦で鍛えた高度な操船技術によって、西から江戸への最短ルートを開拓し、一大消費地である江戸に鰹節も運ばれるようになりました。その頃には、各地で鰹節の製造が拡まり、地域ごとの名前を付けた『〇〇節』の『諸国鰹節番付表』が作られています。いわゆる、『おいしい鰹節ランキング』です。 この中の行司役を見ると、『波切節』って書いてあるんです。行司はいわゆる審判役。物の良し悪しを公平に見分ける目が必要です。つまり、波切節は、古来より伊勢神宮にお供えされてきた『神様の土地の鰹節』として裁定を下す役どころを仰せつかったのではないでしょうか。」

 

江戸後期文政五年(1822年)に登場した「諸国鰹節番付表」

 

伝統的な「手火山製法」

志摩にも鰹の一本釣り漁を得意とする漁師がたくさんいたという。現在でも、三重県の鰹の一本釣り漁獲量は全国トップクラスだが、漁業基地がないため水揚げ量はほぼない。全国の良質な鰹を見極めて仕入れ、鰹節へと加工している天白さん。そんな彼が鰹節業を一生の生業にしようと決意したのは、江戸時代につくられた「諸国鰹節番付表」を偶然見つけた学生の時だった。 「ご先祖様はこんなに素晴らしい鰹節をつくっていたのか!この火を絶やしてはいけない」 と思ったそう。ふと周囲を見渡すと、波切で鰹節だけを生業としているのは自社を含めて3軒だけ。手火山(てびやま)製法という伝統的な燻しを続けているのも、全国で10軒ほどになってしまった。 「目や手で熱を見ながら火加減を調整するこの製法は、とっても非効率。機械を使って〇度で〇分、と決めた方が効率がいいに決まっています。でも、鰹って、シーズンや漁獲海域によって魚の質が全然違います。だから、その魚質を見極めて火入れを調整した方が、最終的な製品のバラつきがなくなります。極付いぶしにて、品質の良い鰹節を伝えていきたいですから。

 

薪は、地域の里山から採った間伐材を利用しています。この辺りには、備長炭の原材料となるウバメガシがたくさん自生していて、やはり、火力が強くて安定しているので、とても重宝しています。」

 

山と海が生きていてこその鰹節

「昔は各家庭で薪を365日使用して、生活の一部になっていましたから、山の均衡が保たれていました。利用する人が減り、山が荒れ、ウバメガシの立ち枯れが目立つようになりました。それに気づいたのは、海女さんと話をしていた時に、アワビが捕れなくなったと聞き、原因を調べていたら山が荒れていることに行きついたからです。地元和菓子屋と連携し、間伐材を使用した取り組みをしていたら、徐々に山が再生してきました。」

 

海と山はつながっている

 

  天白さんは「子どもの頃に食べた、あの鰹節の味になかなかならない。製法を色々試してみたんだけれど、おそらく、製法の問題だけでなく、魚の質の問題ではないか」と言う。 鰹が捕れた海域を調べると、縄文時代は、海岸へ接近するまで近くに来ていたようで、遺跡から鰹の骨が見つかっている。明治20~30年代後半から急激に日本国土の開発が進み、森林が減り、都市が急増した。その頃には、鰹は沖合でしか見られなくなっており、私たちの暮らし方が山や海に影響を与え、魚の質にも影響を与えていると考えてもおかしくはない。 私たちの先祖はこの自然の循環に抗わず、何百年も山を守り、海を守り、大自然という神様からの贈り物をいただいて生きてきた。神様にお供えをし、それを直会としていただくことを、「神人共食(しんじんきょうしょく)」と言う。神様からいただいたものを食べることで、神様と心が通じ合い、御加護を頂けると考えていた。 「いただきます」に込められた意味は深い。

 


2021年3月取材。「暮らしの発酵通信」13号掲載

Information
かつおの天ぱく:(有)まるてん
住所
三重県志摩市大王町波切2545-15
TEL
0599-72-4633
その他
燻し小屋見学は予約制です。

この記事を書いた人

里菌 かこ
「暮らしの発酵通信」ライター/発酵ライフアドバイザーPRO.

微生物関連会社に10年務め、農業・健康・環境などあらゆる分野での微生物の可能性について取材し、業界紙に掲載。発酵ライフアドバイザーPRO.の資格を取得し、発酵食品についても広く知識を深める。ライティングだけではなく、ワークショップ講師やイベント企画も務める文武両道の発酵ライター。

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